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コンチェルト2号感動の毎日 concerto2.exblog.jp

新潟市西堀前通1のギャラリー蔵織さんの中に移転しました。


by concerto-2

盤鬼様メルマガ第5弾&第6弾。

盤鬼、平林直哉さんからのメルマガ「盤鬼のつぶやき」が5弾、6弾と届きました。

ではご紹介。
まず第5弾から!

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盤鬼のつぶやき第5回
2009年1月24日号

アイダ・シュトゥッキのこと

 昨年末のこと、レコード会社の担当者から「アイダ・シュトゥッキ(Aida Stucki)というヴァイオリニスト、ご存知ですか?」、こう言われて私は反応出来なかった。担当者は続ける、「ムターの先生らしいですよ」。渡されたCDはTAHRAの663という番号のもの。それでも私はピンとこなかった。
 「Discopaedia of the Violin」という本をご存知だろうか。これはカナダのJ.クレイトンが著したものだが、内容は古今東西のヴァイオリニストのディスコグラフィ集で、1990年頃に第2版が出ている。大きさはA4よりわずかに大きく、この第2版は4巻分が幅約11センチもある。収録されているヴァイオリニストの数は何人だろうか、おそらく数百人ではあるまいか。たとえば日本人では江藤俊哉、前橋汀子、漆原朝子、潮田益子なども含まれていることからもわかるように、世界的にはそれほど有名ではない奏者までも網羅している。ところが、この本にはシュトゥッキは出てこない。さらに調べていくと、彼女が録音したものと言えばモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第1、2、7番(ピリオド)、シェックの弦楽四重奏曲(レーベル不明)くらいしか見あたらない。残した録音もこれだけ地味であれば、彼女の名が知られていないのはむしろ当然なのかも知れない。
 彼女の略歴はTAHRAの解説のよると以下の通りだ。1921年、ヴィンタートゥール出身の父とシチリア出身のもとでカイロに生まれる。母は美声の持ち主であり、シュトゥッキの名前アイダはイタリア・オペラ好きの母からさずけられた。彼女の最初の先生はドイツの指揮者、ヴァイオリニストのErnst Woltersだった。1937年、母の病気のためシュトゥッキはヴィンタートゥールに戻るが、その後カール・フレッシュに師事、さらにチューリッヒではバルトークと交友のあったStefi Geyer(1888-1956)にも師事している。彼女はハスキルともしばしば共演していたらしいが、その後の詳しい活動については触れられていない。
 シュトゥッキとムターとの出会いは1974年、ヴィンタートゥールでムターがメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾いた時である(この時、ムターは11歳)。演奏の直前に楽器の調子が悪くなり、それを救ったのがシュトゥッキだった。これがきっかけとなり、ムターは彼女に教えを乞うことになったらしい。
 さて、このCDに含まれる演奏だが、1949年12月30日、ヘルマン・シェルヘン指揮、ベロミュンスター・スタジオ管弦楽団、曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲である。音源はシュトゥッキ自身が所持していた78回転盤(恐らくアセテート盤であろう)とのことで、音揺れや歪みもあり、特に伴奏の音は強い音が終始割れ気味で、決して良いとは言えない。だが幸いなことに、独奏はマイクに近いようで、極めて鮮明に捉えられている。その演奏だが、全く予想もしなかった美しさであった。古い世代に属する、特に女流ヴァイオリニストには独特の音程の取り方をしたり、一風変わった弾き方をする人も多く、そうしたものが独特の味わいを醸し出すことも多い。しかし、このシュトゥッキは全くの正統派だ。その意味では知性派フレッシュの教えを忠実に守っていると言える。しかし、微妙な変化と輝かしいほどの高貴な音も彼女の特色なのだ。たとえば第1楽章、ややゆっくりと、いかにも昔風な感じで手探りに始まる。だが、その音には何とも言えない柔らかさと気品が満ちあふれ、みるみるうちに引き込まれてしまう。緩急の付け方も見事で、実にさりげなく、かつ自然に行われている。第2楽章の美しさにも驚いた。この楽章のこんなにきれいな演奏も、ここしばらくはめぐり会っていないような気がする。決して甘くべたべたと歌っているわけではないのに、いちじるしく夢心地にしてくれるのだ。第3楽章のいくらか遅めのテンポ設定も見事だ。これ以上遅くするともたついた感じがする、その一歩手前で踏みとどまっている。そして相変わらず硬軟、緩急のさりげない変化が実に見事。このCDのブックレットの冒頭にはムターの「この録音は弦楽器を弾く人、音楽愛好家すべてに必携である」という一文が掲載されているが、これは決して大げさではないと思う。
 余白にはバリリの独奏によるバッハのヴァイオリン協奏曲第2番が収められている。いかにも唐突なような組み合わせだが、ベートーヴェンと同じくシェルヘンの伴奏ということで採用されている(周知の通り、このTAHRAはシェルヘンの娘ミリアムが切り盛りしているからだ)。ブックレットに記述はないが、このバッハは有名なウェストミンスター原盤である。
 今回の復刻盤は、さすがTAHRAである。自前レーベルGrand Slamにはとうてい出来ない。

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平林 直哉

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続いて第6弾

盤鬼のつぶやき第6回
2009年1月25日号


フルトヴェングラーとトスカニーニ

 戦前、戦後を通じて世界中の人気を2分した指揮者がフルトヴェングラーとトスカニーニだったことはあえて強調するまでもない。この両者はお互いを強く意識したことでも知られているが、ある新聞記者が「あなたのライバルは誰ですか? 教えて下さいよ」と何度もしつこく迫ったら、トスカニーニは激怒しながら「フルトヴェングラー!」と答えたという逸話がある。また、戦前のザルツブルク音楽祭の時、2人は路上で鉢合わせし、トスカニーニがフルトヴェングラーに対して「ナチスの統治下で演奏するなど、もってのほか」と非難し、それに対してフルトヴェングラーは「ナチス統治下であっても人々がバッハやベートーヴェンを聴く自由はある」と言い返し、激論に発展したと言われている。
 この2人の巨匠だが、ともに1954年に活動の終止符を打っている。あと1年たてばステレオ録音が実用化されるというところで、2人ともが活動を終えているというところも、歴史の不思議というか、単なる偶然とは思えないのだ(トスカニーニにはいくつか実験的なステレオ録音は存在するが、正規のものはない)。
 さて、私が気になるのはフルトヴェングラーはトスカニーニが引退したニュースをどのように受け止めたかということである。1954年4月4日、トスカニーニは指揮をしている途中で記憶を喪失し、会場は長い沈黙に支配された。ラジオの生放送では「トラブルが発生しました」とアナウンスされ、ブラームスの交響曲第1番の冒頭がしばらく流されたあと、間もなく演奏は再開された。このショッキングな出来事のあと、トスカニーニは引退を表明、以後、公の場には一切姿を現さなかった。このニュースもフルトヴェングラーところにはただちに伝えられたと考えるのが普通だろう。フルトヴェングラーは特に戦後になってから作曲をする時間を欲しがっていたので、これを聞いて「そうか、私も早く引退して作曲に専念したいものだ」などと思ったのだろうか。しかしながら、少なくとも私が知る限りでは、フルトヴェングラーがどんな感想を抱いたのか、それを記した文献はないように思う。
 一方、トスカニーニは引退後、1957年に亡くなっている。そうなると当然、トスカニーニも1954年11月のフルトヴェングラーの訃報を耳にしているはずである。1965年、ダニエル・ギリスはフルトヴェングラーの弔辞を集めた"FURTWANGLER RECALLED"(邦訳『フルトヴェングラー頌』、仙北谷晃一訳、音楽之友社)を著している。同書に掲載されているのはワルター、カザルス、ストコフスキー、ベームなどの指揮者、オネゲル、シェーンベルク、ヒンデミットらの作曲家、メニューイン、シュナイダーハン、カーゾン、フラグスタートなどのソリストたち、あるいは旧西ドイツ首相アデナウアーなど、そうそうたる顔ぶれである。しかし、ここにもトスカニーニの名前はない。トスカニーニは戦後のウィーンですら「ナチスの残党がうようよいるところになど絶対に行きたくない」と語っていたらしいが、このフルトヴェングラーの訃報をトスカニーニはどう受け止めたのだろうか? 「フルトヴェングラーの死去、それは私にとってナチスの残党のひとりが亡くなったというだけだ」、というようなことを漏らしたのだろうか?

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平林 直哉
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こんな2日連続で「つぶやく」なんて〜盤鬼様長続き大丈夫っすかぁ?
でもムターの師匠って興味ありますね(第5弾)
そもそも考えてみるとムターってけっこう有名になるまで謎が多いと思いませんか?
ほとんど知られていない。
なぜにカラヤンは目をつけることが出来たのだろうか。
コンクールにも出てないと思うし。
今回の師匠登場はそんなものに一石を投じる1枚になりそうですね。

盤鬼様ありがとうございます。
by concerto-2 | 2009-01-27 19:11 | サイト・ブログのご紹介 | Comments(0)